宗澤政宏がお届けする、社会貢献に関する紹介

日本写真映像専門学校を卒業した人々⑦

【要約】

宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校は写真業界に数多くの人材を輩出してきました。

今回は、そんな卒業生のなかから、登野城弘さんにスポットを当てます。

 

【はじめに】

ダイヤモンドソサエティの代表として知られる宗澤政宏氏は、日本写真映像専門学校の運営にも携わっています。

前回、前々回に引き続いて今回ご紹介するのは、登野城弘さんです。

 

【日本写真映像専門学校の卒業生・登野城弘さん】

登野城弘さんは1937年沖縄県石垣市生まれ。日本写真映像専門学校の卒業生です。

登野さんは、“大阪城を撮り続けてきた写真家”として知られ、海外でも大阪城に関する写真展を開くほどですが、そのはじまりとなったのは日本写真映像専門学校での校外実習での出来事。初めて大阪城を訪れ、その姿にたちまち魅了されたといいます。

 

大阪城といえば、豊臣秀吉が築城したものというイメージが強いと思いますが、天守閣が立っている石垣は、大坂夏の陣(1615年)で城が焼失した後、徳川幕府によって築かれたものであることが分かっています。

徳川幕府によって建てられた新たな大阪城には、西日本の大名たちににらみを利かせるための拠点として威容が求められ、石垣は秀吉のものの2倍の高さに積まれ、各地で切り出された巨大な石材がふんだんに使われました。

その技術は将軍が住む江戸城よりも手が込んでいて、戦国時代に発展を遂げた築城技術の集大成ともいえます。

 

そんな大阪城ですが

「周囲にはまだ高い建物もなく、それだけに天守閣が引き立って見えた」。と語る登野さんは、それ以降も時間があれば足を運んで熱心にレンズを向けました。

日本写真映像専門学校を卒業した後は、写真館勤務を経てフリーとなり日本各地の自然風景や大阪城の四季を撮影していましたが、やがて城関係者と顔見知りとなり、「自分たちでも見たことがない大阪城の光景が写っている」と高い評価を受けることになります。

その後も写真集や個展を連続的に手掛けていた登野さんに、やがて一世一代の好機が訪れることになります。

 

というのも、近年の大阪城の歴史に刻まれる一大事業「平成の大改修」(95年12月~97年3月)工事において、登野さんは記録員を務めることになったのです。

これによって、いままで間近で見ることが不可能だった天守閣の屋根の上や内部などを連日撮影することができるようになりました。

現場は粉塵に包まれて全身真っ白。

「カメラが壊れるほど過酷だったが、一生に一度の貴重な経験だった」と振り返ります。行動をともにした工事関係者にとっても後世に誇れる仕事であり、今でも交流が続いているといいます。

 

そんな登野さんが、最近力を入れているテーマは「石垣の刻印石」。

日本各地の藩名などを意味する刻印は約2千種ともいわれていますが、いまだ全容が解明されず完全な資料もないため、終わりがない撮影です。

汚れや植物、光線状態などで目視が困難で、苦労の連続だといいますが、新たな刻印を発見することは「歴史を発掘する喜び」と語ります。

「謎は謎として歴史ロマンを感じるのも大きな魅力。都心にあって緑豊かな場所であることも含め、写真を通じて大阪城のPRに貢献したい」と、これからも登野さんは大阪城をシャッターに収め続けます。

 

【最後に】

登野さんが大阪城に強く惹かれるようになったのは日本写真映像専門学校時代の校外実習のことでした。

 

登野さんの学生時代と同様、現在も日本写真映像専門学校では校外実習を通じて生徒たちにリアルな撮影演習の場を提供しています。

ひょっとすると、登野さんのように、校外実習を通じて、生涯を通して撮影したいと思えるような被写体に巡り合う生徒さんが再び現れるかもしれません。

 

そして何より、日本写真映像専門学校の運営に携わる宗澤政宏氏の貢献も忘れてはなりませんね。