【要約】
この記事では、宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校の卒業生の活躍をご紹介しています。
【はじめに】
宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校は、長年にわたって写真界に数多くの優秀な人材を輩出してきたことで知られています。
今回も、過去の記事に引き続いて、そんな日本写真映像専門学校の卒業生のなかからピックアップして、その方の活躍をご紹介していきます。
今回ご紹介するのは、浅田政志さんです。
【日本写真映像専門学校の卒業生・浅田政志さん】
浅田政志さんは、過去の記事でもご紹介したことのある著名な写真家です。
日本写真映像専門学校を卒業したあと、東京で2年ほどスタジオに勤務し、2007年に独立、現在も全国で活躍しています。
【写真家としてのルーツは父親との思い出にあった】
自身も含む家族を、コスプレなどをしながら写した写真集「浅田家」で平成21年に第34回木村伊兵衛写真賞を受賞するなど、家族をテーマにした楽しい写真を撮ることで知られる浅田さん。
写真家としての原点は、生まれたときから成人するまで、父である章さんに撮られ続けた年賀状の写真にあるといいます。
「お正月におろす新品の服を撮影のために着て、兄と一緒にいろいろなポーズで取らされた。おとんは撮るのが遅くて、ポーズを取ったまま結構長い時間待たされた。
いつも兄と『早くシャッター切れ』と思っていました」と当時を振り返る浅田さん。
章さん愛用のカメラ、「ニコンFE」は普段はガラス戸棚の中に置かれていたそうです。
浅田さんは、これを首から下げたりファインダーをのぞいたりして遊んでいたのを覚えているとのこと。中学3年のとき、どうしても実際に撮りたくなり、近所の写真店でフィルムの種類や装填の仕方を教えてもらい、このカメラで写真を撮り始めました。
当時、周囲にカメラを持っていた友達は皆無で、「人と違うことをやっている自分は格好いい」との思いもあったのだとか。
章さんは何でも自由にやらせてくれる方でした。
浅田さんは日本写真映像専門学校を卒業後、自由に撮影旅行へ出掛けるため、就職せずにパチスロの稼ぎで暮らしていたことがありましたが、このときも何も言われなかったそうです。「パチスロで生活するなんて普通の親なら怒るだろうけど、親父は『そんなに稼げるなら俺も行こうかな』って、自分でも行き始めた。
パチスロ生活は3年でやめたが、親父に怒られていたら意地になって続けていたかも。
好きにやらせてくれたから、今、こうして写真家になれたと思う」と回顧します。
浅田さんは最近、章さんが本当は岡村姓で、子供の頃に浅田家に養子に出されたことを知りました。
章さんは浅田家と折り合いが悪く、高校を中退して家を飛び出したそうです。
職を転々とし、結婚したのは40歳を目前にしたころのこと。今ではそうでもありませんが、当時としては遅い結婚でした。
「養子先を飛び出し、長い間、1人で暮らしていた父は、ちゃんとした家族をつくりたかったと思う。僕たち子供の写真を撮影した年賀状にこだわったのも、家族を持った喜びを伝えたかったのでは。
父のつくりたかった家族になれたかは分からないけど、家族に対する思いの強さは感じています」。浅田さんが写真にこだわるルーツがここにありました。
【最後に】
浅田さんのように、家族や友人との思い出がきっかけで写真家を志す方は少なくないのではないでしょうか。写真には私たちをひきつける強い魅力があります。
日本写真映像専門学校は、人々の記憶に残るような素晴らしい写真を撮影できる人材をこれからも育成し続けます。
そして、宗澤政宏氏も、同校を通じて、社会に多大な貢献をし続けていくことでしょう。