宗澤政宏がお届けする、社会貢献に関する紹介

日本写真映像専門学校を卒業した人々⑳

【要約】

この記事では、宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校の卒業生の活躍をご紹介しています。

 

【はじめに】

宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校は、長年にわたって写真界に数多くの優秀な人材を輩出してきたことで知られています。

今回も、過去の記事に引き続いて、そんな日本写真映像専門学校の卒業生のなかからピックアップして、その方の活躍をご紹介していきます。今回ご紹介するのは、梅佳代さんです。

 

【地元を愛する梅佳代さん】

旧柳田村(現能登町)出身の写真家、梅佳代さん。日常の何げないひとコマを独特の感性で切り取った作品は“ご近所写真”とも呼ばれ、初の写真集「うめめ」は新人としては異例の5万部を売り上げました。自動販売機の横にあるゴミ箱をのぞく小学生、さびしげな目をした犬など、思わず「くすっ」と笑える写真に惹きこまれます。

 

旧宇出津高(現能都北辰高)を卒業後、日本写真映像専門学校へ進学。生まれ故郷の石川県は、最寄りのコンビニも郵便ポストも6キロ先という環境だったため、「冷蔵庫にジュースが無くても、買いにも行けない。とにかく早く出たかった」のだとか。

 

梅さんが写真を始めようと思ったのは「カメラなら簡単やろ」と思ったのと、「頭がよくて美人な友だちが写真をやっとって、いいなーと思って。芸能人に会えたりして、イチローと結婚できるかもしれんと思って」というミーハー心から。そんな気持ちで入学した梅さんですが、3年間、出された課題に取り組んでいくうち、何を作品として発表したいかが分かってきたといいます。

 

「大阪での生活がとても新鮮でした。面白い人の表情や行動に出会うと、友だちに見せたくて撮影し、それが今の作風になっていきました。在学中はとにかくたくさん撮りました。1年の時の、難波の寮の近くの公園で遊ぶ男子小学生と仲良くなって撮影した『男子』という作品。審査員の荒木経惟さんが佳作に選んでくれたので自信を得て、写真家になることを決めました」。卒業後は東京に転居し、アルバイトをしながら、写真を撮り続けました。

 

東京の町で有名人を見かけることが増えると「ミーハー度はさらに上がった!」のだとか。

そんな梅さんは、地元・能登に帰省したときには、祖父と祖母の写真を「もっともっと命が延びればいいのに」との思いを込めて撮っていたといいます。「じいちゃんは90歳。

1年を90回も、なんてかっこいい。ばあちゃんと2人で仏壇の前で澄まして座ってる写真が一番のお気に入り」と話します。

 

地元でサイン会&トークショーを開催したときは、会場は1階から3階まで約300人でぎっしり。用意された100冊が約20分で完売した。「今書くから、(マジックの)音聞いとってね」「緊張しとんのー?」。梅さんはサイン会で、1人ひとりに能登弁で声をかけながら、それぞれに違うサインをしたためました。ひよこ、ねこ、ぺんぎん……。

雰囲気にあわせて絵を描き分けていきます。梅さんの魅力は何なのか――

訪れていた人に聞いてみると、「飾らない、ありのまま、自然に撮れているのがいい」「写真は日常だけれど非日常なところがいい」「写真を見るとパワーがもらえる。テレビで能登弁にも感激した。自分と同じ能登の人が頑張っているのはすごくうれしい」との声が挙がりました。

 

2008年には、「ふるさとの役に立つように使って」と持木一茂町長に「ふるさと納税」の寄付金を手渡したこともありました。

同年代の女優広末涼子さんが出身地・高知市にふるさと納税をしたことを知り、寄付を思い立ったそうで、梅さんは能登町について「海と山があって、祭りがいっぱいある。大切にしたい場所」と言い、寄付の使い道については「最近はやりの『ゆるキャラ』を作ってほしい。

『のとピー』とかどうですかね」とユーモアある返答で故郷愛を表現してくれました。

 

【最後に】

宗澤政宏氏が運営に携わる日本写真映像専門学校で学んだことを活かして、今現在大活躍中の梅佳代さん。今後も、梅さんのような逸材がどんどんと発掘されていくことでしょう。