宗澤政宏がお届けする、社会貢献に関する紹介

日本写真映像専門学校を卒業した人々㉗

【要約】

この記事では、宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校の卒業生の活躍をご紹介しています。

 

【はじめに】

宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校は、長年にわたって写真界に数多くの優秀な人材を輩出してきたことで知られています。

今回も、過去の記事に引き続いて、そんな日本写真映像専門学校の卒業生のなかからピックアップして、その方の活躍をご紹介していきます。今回ご紹介するのは、池本喜巳さんです。

 

 

【鳥取の写真家・池本喜巳さん】

鳥取市の繁華街、弥生町を横切り、山白川を渡った先に、池本喜巳さんの写真事務所が見えてきます。吉方温泉1丁目、コンクリート打ちっ放しで住まいも兼ねています。

20代の池本さんが、自宅4畳半で開いたのがはじまりでした。37年間、事務所を営みながら、七五三や結婚式などの記念写真は撮らない、という一線を守ってきた池本さん。

 

たとえ稼げても、パターン化された写真は撮りたくない、との思いでした。池本さんが言うには、主に記念写真を撮影するのは写真屋、新聞社やテレビ局の撮影担当はカメラマン。池本さんには写真家を名乗り、哲学をもった撮影に軸足を置いてきた、という自負がありました。

 

テーマとも言い換えられる池本さんの哲学は、「山陰の記録」です。母ひとり子ひとりで育ち、20歳の頃から日本写真映像専門学校で写真を学び、1970年に帰郷。フリーで活動しながら、国際的に知られた植田正治さんの助手として働きました。師と、フランスやドイツで開かれた写真家のイベントに同行する機会を得て、数々の芸術作品と自分の作品を比べ、打ちのめされてきたそうです。

 

鳥取を拠点にしているから、著名人や世間の関心を集める光景といった被写体にもよりかかれない。ただ、郷土の記録ならできる、と考えた池本さん。これまで山陰を舞台に写真集6冊を出してきました。約8年かけて撮影した「写真集 三徳山三仏寺」は、県出版文化賞を受賞。「鳥取百景」は、ダムで水没する集落など変わりゆく100カ所の陰影をとらえました。2006年発行の最新作「近世店屋考」は、将棋をさして順番を待つ理髪店、麒麟獅子を扱った仏具修理店といった個人商店を撮影。足の型から作り上げる靴職人は撮影こそ許したものの、その1時間、無言だったとか。23年間かけて追った店の大半は、すでに閉めていました。「自分の代で終わりとつぶやく、世渡りが下手な人ばかり。そんなはざまに生きる人の証しを写しておけば、50年後、100年後、山陰の生活記録に厚みを持たせ得る」。

 

池本さんは幼いころから、何かとこだわる性格でした。近所でチャンバラをするのにも、棒を削った刀に銀紙を巻いて雰囲気をだし、風呂敷を羽織って登場。「かたとり(かっこつけ)」とからかわれたこともありました。

当時、遊びに人一倍工夫を施したのは、寂しさを乗り越えようとしたからか、と今になっては思うそうです。テレビもない時代。旅館の仲居として働く母を午前1時まで待ち、ひとりで絵を描くうちに腕を上げました。高校卒業時には新聞社の広告の描き手として採用され、写真の世界と出会い、プロを志しました。

 

それから40年余り。デジタルカメラが広がり、誰でも簡単に写せる時代を「カメラの前方にある事柄よりも後ろに立つ撮影者の意識が問われる」と位置づけています。

還暦を過ぎ、天台宗の僧侶として得度をしました。「何かが見えてくるのでは」と願ってのことでした。デザイナーや助手と一緒に営む写真事務所で、ポスター撮影など商業写真を請け負い、生活の糧を得てきた。写真集や発表作品からは一円も稼いだことがありません。夢は「小さくてもいいから自作を展示する写真美術館をつくること」だそうです。

 

【最後に】

日本写真映像専門学校と宗澤政宏氏はこれからも池本さんのような個性的な写真家を輩出し続けることでしょう。