宗澤政宏がお届けする、社会貢献に関する紹介

日本写真映像専門学校を卒業した人々㊳

【要約】

この記事では、宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校の卒業生の活躍をご紹介しています。

 

【はじめに】

宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校は、長年にわたって写真界に数多くの優秀な人材を輩出してきたことで知られています。

今回も、過去の記事に引き続いて、そんな日本写真映像専門学校の卒業生のなかからピックアップして、その方の活躍をご紹介していきます。今回ご紹介するのは、鋤田正義さんです。

 

【写真家を志したのは、ジェームズ・ディーンの写真がきっかけだった】

鋤田さんが写真家を志したきっかけは、マグナム・フォトスのメンバーだったデニス・ストックが撮ったジェームズ・ディーンの写真でした。高校生だった鋤田さんにとって、ディーンはまさにアイドル的存在で、そのディーンを撮ったストックの写真はとても優れていました。鋤田さんはナンバー入りのプリントを何枚も購入したといいます。

 

ところが、時代は急速に変化していきました。鋤田さんが大好きだったロックの世界では、ピンク・フロイド「アトムハートマザー(原子心母)」というカバーアートに驚いたといいます。牛が大きく写っているだけという作品で、「これからはアートディレクターの存在が重要になる」と鋤田さんに認識させる契機となりました。

 

その影響もあって、鋤田さんがロックミュージシャンを撮影するときは、ただ単にポートレートやスナップではなく、如何にメディアとして成立させることが出来るか、ミュージシャンたちが表現したいことと写真が結びつくか、を意識するようになりました。

 

【鋤田さんの写真が「ヒーローズ」のジャケットに】

1977年にボウイが来日すると、鋤田さんとフォトセッションをしようという話になりました。後に「ヒーローズ」のジャケットとなるポートレートは、東京のスタジオで、わずか1時間で撮影されました。ちなみに、そのときイギー・ポップも同席しており、彼のポートレートも撮影、その写真は「イディオット」で使用されることになります。

 

ボウイの撮影はとても面白かったといいます。テーブルに座っているのですが、ヘアメイクの人があえて髪の毛をグチャグチャにしたり、たばこを吸ってみたり、同席していたイギーとふざけあってみたり…。その雰囲気が功を奏したと鋤田さんは回想します。

 

 

【ボウイのメッセージを感じながらシャッターを構えた】

ボウイはスタイリストの高橋靖子さんに頼んで革ジャンを用意していました。鋤田さんもロンドンでパンクスの撮影をしていたので、革ジャンを見ただけで、鋤田さんはボウイがパンクスたちにメッセージを送りたいのだということを察しました。

 

「ヒーローズ」の写真はカメラ1台のみで撮影をしました。マガジンを装着して撮れるコマ数は増やしていましたが、だからといってシャッターを押し続ければ良い作品が撮れる訳でもなく、とはいえただ待っていてもシャッターチャンスを逃してしまう…。サッカーと同じようなもので、サッカー選手がボールの飛んでくる地点を予測するように、鋤田さんもボウイを予測しながらシャッターを構えていきました。

 

鋤田さんは写真を撮るときには常に「観察」を欠かしません。特にミュージシャンやアーティストが被写体の場合、彼らはメッセージを抱えていることが多いといいます。

明確に意識をしているわけではなくても、彼らは自身をメディアとして捉え、何かを発信しています。ボウイも、鋤田さんになにか指示をしたわけではありませんが、鋤田さんはボウイの様子を観察し、パンクという新しい存在に向けたメッセージを感じながらシャッターを押しました。

 

【最後に】

鋤田さんのように、世界的に有名なミュージシャンを撮影する写真家を輩出するのが日本写真映像専門学校であり、その運営に携わるのが宗澤政宏氏なのです。