【要約】
この記事では、宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校の卒業生の活躍をご紹介しています。
【はじめに】
宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校は、長年にわたって写真界に数多くの優秀な人材を輩出してきたことで知られています。
今回も、過去の記事に引き続いて、そんな日本写真映像専門学校の卒業生のなかからピックアップして、その方の活躍をご紹介していきます。今回ご紹介するのは、浅田政志さんです。
【ボランティアを通して、写真のあるべき姿も見直した】
東日本大震災の被災地のひとつである、岩手県野田村で写真洗浄のボランティアに携わった浅田さん。写真をきれいにするなかで、震災の被害に遭われた方々が、日常生活を失ってしまったという事実を痛感しました。そんななかで、浅田さんは写真のあるべき姿についても改めて見直すことになります。
野田村では、洗浄された写真の持ち主を探すために「お茶会」を開催しました。お茶会は、文字通りお茶を飲みながら写真を見て、その持ち主を探すというものです。
お茶会のなかで、若いころの写真が見つかったおじいちゃんがいました。たった1枚しか写真は見つかりませんでしたが、小さな写真を大切に持ち帰るおじいちゃんの姿を見た浅田さんは、「写真を家に飾って、時々見返して人生を振り返るのだろうか…」と思いをはせたといいます。この写真は、美術館などに飾られるような高価な写真ではありませんが、そのおじいちゃんにとっては、かけがえのない写真となります。浅田さんはこの経験を経て、写真とはその人にとって「1対1の関係」にあるべきものである、と考えるようになりました。
実は、写真洗浄のボランティアに協力したいと申し出た人は浅田さんだけでなく数多くいたといいます。震災で汚れてしまった家財道具は写真だけでなくほかにも多々あるなかで、写真洗浄ボランティアに携わりたいという人が多かったということは、人々が心のどこかで写真の大切さに気付いたからなのかもしれない、と話します。
【被災地の人々を撮影した】
浅田さんは気仙沼や南三陸で、被害に遭われた地元の方々を撮影する機会を得ました。特に南三陸には何度も足を運びました。
復興に向けて活動する方々を撮影する中で浅田さんが感じたのは、「人間力」でした。何億という資金を費やして建設した工場を一瞬にして壊され、それでも前向きに再建を目指す社長さんなどを見ると、自分だったら…とそのすごさに脱帽してしまったそうです。
特に浅田さんの印象に残ったのが、仮設住宅で揚げ物の屋台をやっていた後藤さんでした。後藤さんは震災前には海鮮料理店を営んでいましたが、津波によって流されてしまいます。行列のできる人気のお店でしたが、お店を再建せず揚げ物の屋台という業種に転向したのは、仮設住宅では揚げ物の料理がしにくい、という地元の人々に役立つことがしたいと思ったからだったそうです。
人々のために夏の暑い車内で揚げ続ける姿に、浅田さんは心を動かされました。浅田さんにとって家族写真が得意であるように、後藤さんにとっては海鮮料理が得意で、一番自分を表現できるものだったはずです。しかし、後藤さんはそれではなく、あえて揚げ物を選んだ…、それは後藤さんにとって、誰かに喜んでもらえたり、美味しいと言ってもらえたりすることが仕事の動機だからなのでは…と浅田さんは考えます。その柔軟さに、後藤さんの人間としての強さを感じたといいます。
【写真を通して、被災地の姿を届け続けたい】
震災から5年以上が経ちましたが、被災地は更地が目立ち、復興はまだまだこれからです。その一方で被災地に関する報道は減少するばかり。「震災は終わったものだと思われるのが一番つらい」という声が被災地からは聞こえるそうです。写真撮影とは、コミュニケーションの側面もあり、撮影のなかでその人の人となりが分かってくるといいます。「震災で苦労を重ねたにも関わらず力強く生活する人々の姿を、自分しか知らないのはもったいない。これからも被災地に足を運び、その姿を届けたい」と浅田さんは語っています。
【最後に】
写真を通して被災地や被災者の姿を届け続ける浅田さん。日本写真映像専門学校と宗澤政宏氏は、これからも浅田さんのような写真家を育て続けることでしょう。