宗澤政宏がお届けする、社会貢献に関する紹介

日本写真映像専門学校を卒業した人々54

【要約】

この記事では、宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校の卒業生の活躍をご紹介しています。

 

【はじめに】

宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校は、長年にわたって写真界に数多くの優秀な人材を輩出してきたことで知られています。

今回も、過去の記事に引き続いて、そんな日本写真映像専門学校の卒業生のなかからピックアップして、その方の活躍をご紹介していきます。今回ご紹介するのは、大塚勝久さんです。

 

【沖縄を撮り続ける写真家】

 

大塚さんは日本写真映像専門学校の卒業生であり、フリーの写真家として主に八重島諸島の自然や祭祀を中心として沖縄の写真を撮り続けてきた方です。

1989年からは沖縄に在住し、沖縄専門のライブラリーを設立するなど多岐にわたって活動を続けてきました。それらの活動が評価されて、沖縄県知事から沖縄県観光功労表彰を授与された経歴も持っています。

 

【フリーの写真家として活動したきっかけ】

 

大塚さんがフリーの写真家として活動をはじめたのは、八重島の自然や人々の関係に感銘を受けたのはきっかけでした。特に、神々に捧げる祭りの際には、地域の子供たちが祭りを通して礼儀や尊敬の念を学んでいき、それが地域づくりへと発展しており、そういった伝統を紡いでいく様子に大変興味が湧いたそうです。

 

【八重島の写真を撮るために会社を辞めた】

 

大塚さんが沖縄を訪れたのは、1972年のこと。自身の作品を制作するためでした。その際にはじめて八重島や竹富島の話を聞いて、翌年の73年に八重島へ足を踏み入れました。当時、大塚さんは大手自動車メーカーの宣伝広報課で働いていたのですが、八重島の人々の生活は大塚さんの生活とは大きく異なるもので、人間性にあふれる島民の生き方に魅了されたことから、会社に勤める傍ら八重島に通うという暮らしを送りました。

 

なかでも、竹富島に対して大塚さんは強い気持ちがあるといいます。ある時、浜辺で夢中になって雲を追いかけていた大塚さんは、日射病になって倒れてしまいます。

そのとき、大塚さんを看病してくれた島民の方がいました。

その島民の方は、竹富島のことならなんでも知っていて、様々な話をしてくれました。大企業の競争社会で戦ってきた大塚さんにとって、行事を重んじて、島の人々と協力して物事を進めるという姿に、本来の人間のあるべき姿を感じ取りました。

 

そのあと、八重島でおこなわれる祭祀の写真を撮りたいと思うようになった大塚さんは、熟慮の末に大手企業の宣伝広報兼カメラマンという地位を捨てて、1980年にフリーの写真家に転身、沖縄の写真を撮るようになります。1989年からは那覇に移住して、八重島などの風景を収めつづけています。

 

【これからも美しい自然を守っていきたい】

2011年には自身30周年を記念した写真展を開催しました。

八重島に来てからは、本当に自分が感銘をうけたものだけを写真で表現してきた大塚さんですが、最近、八重島の美しい景色が段々少なくなってきていることに危機感を覚えています。

 

八重島の自然が損なわれてしまった原因は地球温暖化やごみの問題に起因しており、近年、大塚さんは浜辺をキレイにする活動にも参加するようになりました。

それだけでなく、将来の社会を担う子供たちが環境問題に関心を抱くように、何かしらのアクションを取る必要性も感じています。

とはいえ、いまだに八重島の美しさは健在であり、島民の方々もエネルギッシュに活動を続けています。これからも大塚さんは八重島の自然や人々の姿を写真に収め続けていくつもりです。

 

【さいごに】

宗澤政宏氏と日本写真映像専門学校はこれからも大塚さんのように、自然の美しさを表現できる素晴らしい写真家を育てていくことでしょう。