【要約】
この記事では、宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校の卒業生の活躍をご紹介しています。
【はじめに】
宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校は、長年にわたって写真界に数多くの優秀な人材を輩出してきたことで知られています。
今回も、過去の記事に引き続いて、そんな日本写真映像専門学校の卒業生のなかからピックアップして、その方の活躍をご紹介していきます。今回ご紹介するのは、浅田政志さんです。
【赤ちゃんが大人になったときに、過去を振り返るための写真】
赤ちゃんは被写体として自分が撮影されていることには気が付きません。大人になったとしてもその瞬間を明確に思い出すことはできないものです。しかし、大人になって赤ちゃんのころの写真を見た時に、どの写真を見るときよりも興味を持ってみてくれるのでは…という未来への期待も込めて、浅田さんは写真を撮り続けました。
【赤ちゃんは難しい被写体ではあるが、だからこそ一番撮ってあげたい存在】
自分の子供や家族・親類の子供は、一番撮ってあげたい被写体のはずだと浅田さんは言います。浅田家の撮影では、事前にどのように撮るかを家族全員で話し合うわけですが、当然赤ちゃんとは会話ができませんから打ち合わせもできません。そういう意味で難しい被写体ではあるものの、赤ちゃんは家族の一員であり、一番しっかり撮ってあげたいという気持ちは強いため、苦労しながら撮影を続けました。
【赤ちゃんがいることで、浅田家の撮影に集中力と爆発力が生まれるようになった!】
浅田さんは基本的に撮影においては粘りを信条としています。与えられた持ち場で、最大限時間を費やして最高の1枚を撮りたいと思っていますが、とはいえ赤ちゃんがいる場合は長時間の撮影は難しいのが実情です。さらに、セルフタイマーを使って撮るのはとても難しいといいます。撮影のなかでも超難関ともいえるわけですが、だからこそ爆発が起こることもあります。甥が家族の一員になってからの浅田家の集中力はすごいものがあるといいます。みんなが赤ちゃんに注目しているため、赤ちゃんがちょっと笑うだけでその場が盛り上がり、逆に泣いてしまったらその瞬間撮影は中止になります。しかし撮影がどう転ぶかわからないという点をポジティブにとらえることで、良い方向へと転ばせることができると浅田さんは語ります。
【浅田さんと奥さんが付き合うようになったのは、日本写真映像専門学校卒業後だった】
浅田さんは奥さんとふたりで上京してきました。わざわざ友達が見送りに来てくれて、一緒に夜行バスに乗ったといいます。最初は8人くらいのルームシェアから東京での生活がはじまり、その後2人で住むようになりました。ふたりは高校時代からの知り合いでした。浅田さんが一方的にあこがれを抱いていて、たまに連絡を取る程度の関係性でしたが、浅田さんが日本写真映像専門学校を卒業して三重県にもどってから付き合うようになり、ふたり一緒にパチスロでお金を稼ぎ、東京に出たそうです。
【はじめての東京生活をふたりでステップアップしてきた】
奥さんは洋服が好きだったため、最初の仕事は巣鴨の衣服店で販売をする仕事でした。そのとき浅田さんは道路の舗装をするアルバイトをしながらなんとか食いつないで写真スタジオに入りました。ふたりで少しずつステップを踏んできたという感覚があり、結婚するんだろうなと漠然と考えたといいます。ふたりでだらだらと生活をしていましたが、付き合いも長くなったころに、まったくプロポーズをしようとしない浅田さんにしびれを切らした奥さんが衝撃の言葉を放ち、それを機に結婚を決めました。
【さいごに】
日本写真映像専門学校と宗澤政宏氏は、今後も素敵な写真家を社会に送り出し続けることでしょう。