宗澤政宏がお届けする、社会貢献に関する紹介

日本写真映像専門学校を卒業した人々②

【要約】

宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校は長い歴史の中で数多くの人材を輩出してきました。

今回は素晴らしい卒業生のなかから、須佐光浩さんにスポットライトを当てます。

 

【はじめに】

全国でリゾートホテルを展開しているダイヤモンドソサエティの代表・宗澤政宏氏は日本写真映像専門学校の運営にも携わっています。

 

前回に引き続いて、そんな日本写真映像専門学校が輩出した素晴らしい卒業生をピックアップして紹介したいと思います。

 

【日本写真映像専門学校の卒業生・須佐光浩さん】

須佐光浩さんは1967年、兵庫県西宮市生まれ。日本写真映像専門学校の卒業生です。

 

須佐さんは23歳のとき、友人と写真事務所を設立、26歳のときに独立、以後雑誌や新聞などで写真家として活躍しています。

そんな須佐さんは、K-1のオフィシャルカメラマンを務めています。

リングサイドで、二、三人のサポートカメラマンを束ね、自らもシャッターを切ります。

「いつの間にか試合に入りこんでしまい、男の闘いにジーンとくることが多いですね。角田(信朗)師範の引退試合や、佐竹-武蔵戦、ミルコ-ボブ・サップ戦なんかは本当に感動したなあ」

と語る須佐さん。

 

実は須佐さん、小さいころにいじめられた反発で小学校三年から少林寺拳法を習い始めたといいます。

中学校からは空手道場に通って身体を鍛えてきたそうです。K-1の母体となった空手の正道会館にも通い、練習のかたわらパンフレット用の写真なども撮影したとのこと。

「けがをした選手が、それを表に出さずに戦っていることなんかも知ってしまっているわけですよ。そうすると負け試合でも、まるでその選手が勝ったときのような撮り方をしてしまう。でも、そんな時の方が、いい写真になっているんですけどね」

と撮影秘話を披露しています。

 

須佐さんは子どものころから写真に慣れ親しんでいたといいます。

というのも、須佐さんの父親・巌さんが甲子園球場のすぐ近くで写真館を営んでいたからです。

「父は履歴書に“写真道”と書くような人物で、家でもカメラをまたぐと平手が飛んできました。ぼくが中学で写真家になると決めたときは、しみじみ喜んでいましたねえ」

といいます。

 

そんな須佐さんの人生のターニングポイントになった出来事があります。

1995年に発生した、阪神淡路大震災です。

あの地震で、西宮市にある須佐さんの祖母の家が倒壊し、一階で寝ていた両親と祖母が下敷きになって亡くなってしまったのです。

病気の祖母の世話のため泊まっていたそうで、須佐さん自身は奥さんと子どもと2階で寝ていたため、間一髪難を逃れましたが、「ドカンという感じで、初めは爆弾が爆発したかと…」というほどのショックを受けたそうです。

ここで、とある事件が起こりました。

「祖母の遺体が出てきたとき、雑誌のカメラマンがすぐ横でフラッシュをたいて撮影していたのです。

われわれの気持ちを考えない取材に頭にきて口論になった。」

結局、須佐さんは阪神大震災の写真を撮ることはできなかったそうです。

 

そんな阪神淡路大震災から十数年。

2011年に東日本大震災が発生しました。

地震発生後、すぐに現地入りした須佐さんでしたが、被災地で漂うガス臭に被災経験がフラッシュバック、炊き出しを手伝った宮城県女川町の避難所では3日間、誰とも話せず、シャッターも切れなかったといいます。

 

しかしその2カ月後、再び東北へ。木工所の男性社長に声を掛け、働いている姿を初めてカメラに収めました。

瓦礫の中、荷物を背負って歩くおばあちゃんは笑顔を撮らせてくれた後、自宅に招いてくれたそうで、「助けに行ったのに助けてもらった気分だった」といいます。

被災者の温かい気持ちに触れ、再びシャッターを切れるようになった須佐さん。

「少しずつあの時の恩返しをしていこう」。そんな思いで、現在も被災地で写真を撮り続けています。

 

 

【最後に】

須佐さんのような素晴らしい写真家を育ててきた日本写真映像専門学校。

その運営に携わる宗澤政宏氏は、これからも同校の教育を通じて社会に貢献し続けることでしょう。