【要約】
宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校は写真業界に数多くの人材を輩出してきました。
今回は、そんな卒業生のなかから、長島義明さんにスポットを当てます。
【はじめに】
ダイヤモンドソサエティの代表として知られる宗澤政宏氏は、日本写真映像専門学校の運営にも携わっています。
過去3回に引き続いて今回ご紹介するのは、長島義明さんです。
【日本写真映像専門学校の卒業生・長島義明さん】
長島義明さんは1942年大阪府生まれ。
日本写真映像専門学校の卒業生であり、現在同校で講師も務めている方です。
長島さんといえば、アフガニスタンに関する写真を撮影していることで知られていますが、2011年、34年ぶりにアフガニスタンを訪れることになりました。その目的は、「あのとき会った少年との約束を果たすため」でした。
長島さんがアフガニスタン・バーミヤン遺跡近くの村を訪れたのは、写真家になってまもない1977年秋のこと。
約1か月半かけてアフガニスタンを巡り、シルクロードの名残をとどめる美しい風景や素朴で穏やかな人々の素顔を撮影しました。
中でも思い出深いのがヒンズークシ山脈を背に子どもらが笑顔で手を振る1枚。
仏教遺跡で有名なバーミヤンから北部の都市に向かう途中、名も知らぬ村に立ち寄ったときのこと。
突然の来訪でしたが、村人は羊肉の料理で歓待してくれ、去り際には子どもらが見送ってくれたといいます。
そこで、長島さんはシャッターを切り、「必ず写真をプレゼントする」と約束し、別れることになりました。
しかし長島さんの帰国から間もなく、アフガニスタンは戦火に包まれることになります。79年、旧ソ連が侵攻し、撤退後も内戦状態が続きます。
01年の米同時多発テロ以降は、米軍の空爆が始まります。
テレビなどで報じられるアフガンは、テロや米軍の作戦行動ばかりで、人々の生活は見えてきません。「こんな国じゃない」。長島さんは、再訪を心に決めていました。
そんな時発生した2011年の東日本大震災。
長島さんも被災地で取材をおこないましたが、同年5月に肺気腫を患ってしまいます。白内障で視力が落ち、両目も手術しました。
体力の衰えを感じていた長島さんは、駐留米軍が撤収を始めるとの報道を聞いて「今しかない」と決意、アフガニスタンに赴くことにしたのです。
そして、現地で尋ね歩き、少年の一人に再会することに成功。
名前は「バフォビン」。49歳のタリバーン兵になっていました。12人の子どもを育て、あの頃の少年と同世代の孫たちもいました。
バフォビンさんの横顔には、幾重のしわが刻まれていました。アフガニスタンの34年間の苦悩を表しているようでした。「外国人が介入したせいで戦争が長引いた」。
そう語るバフォビンさんは、34年前の約束を覚えていませんでしたが、無邪気に笑う少年時代の写真を見せると、口元がゆるんだといいます。
「私たちにとっては非日常の世界だが、私たちと変わらない営み、日常があった」と長島さんは旅を振り返ります。
【最後に】
長島さんは、アフガニスタンから帰国後、同地で撮影した戦乱の傷跡残る写真を通して、人々にアフガニスタンの現状や、戦乱の悲惨さ、武力ではいかなることも解決しないこと、などを訴えてきました。
このように、写真を通じて社会のリアルを伝えることのできる、素晴らしい写真家が、日本写真映像専門学校の講師を務めているということは、いま、同校で写真を学んでいる学生たちにとって、非常に良いことではないでしょうか。
そして、その日本写真映像専門学校の運営に携わっている宗澤政宏氏もまた、写真の重要性を理解し、写真家の育成に携わってきた人物です。
その功績は、多大なものと言えるでしょう。