宗澤政宏がお届けする、社会貢献に関する紹介

日本写真映像専門学校を卒業した人々㉓

【要約】

この記事では、宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校の卒業生の活躍をご紹介しています。

 

【はじめに】

宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校は、長年にわたって写真界に数多くの優秀な人材を輩出してきたことで知られています。

 

今回も、過去の記事に引き続いて、そんな日本写真映像専門学校の卒業生のなかからピックアップして、その方の活躍をご紹介していきます。今回ご紹介するのは、長島義明さんです。

 

【北朝鮮のリアルを撮影した長島さん】

長島義明さんが北朝鮮を旅した時の写真を集めた「38度線を越えて~北朝鮮」展が、2003年に開かれました。幼稚園児の遠足風景、子を連れ歩く母親など、庶民の姿のほか、「板門店」にある軍事境界線を示すコンクリートの帯、戦車止めの石のバリケードなど約50点が展示されました。

 

長島さんが北朝鮮を訪れたのは1996年5月。7年近くも経て展示を決めたのは、2002年末に大阪市内で開かれた拉致被害者家族を応援する会に参加し、横田めぐみさん、有本恵子さんの両親に出会ったのがきっかけだといいます。

子を思う親の思いに触れ、眠っていた写真を思い起こしました。「地球上どこでも家族が離ればなれになることは悲しいことだし、何かの都合で翻ろうされるべきではないはず」。日本の植民地支配についても考えずにはいられなかったそうで、行った者の責任として、北朝鮮を考えるきっかけに、と展示を決めました。

 

「好奇心があって渡りに船の感じ」で在日コリアンの家族訪問団、北朝鮮研究者らと一緒のツアーに参加、平壌や開城を訪れました。ツアーガイド抜きで撮影することはできませんでしたが、案内された場所では自由に写真が撮れたそうです。

「人通りは少なく、商店に物はなかった。だが、マスゲームでもなく、『喜び組』でもない、街をふつうに歩く人々に触れることができた」と振り返ります。

一緒に現地入りしたチャーター機の客は、長島さんの一行以外は大半が在日朝鮮人でした。離ればなれに暮らす肉親に会いに来ているようで、帰国で平壌のホテルを離れる際に、バスの窓際まで寄ってきて別れを惜しむ様子も撮影しました。これまでに120カ国以上で子どもの姿を撮影してきた長島さんは「どの国の親も、自分の子どもの幸せを願う。そうした家族のきずなが、拉致や戦争など国家の都合で引き離される現実を感じてもらいたい」と話します。

 

北緯38度線をはさんで監視する北朝鮮の軍人たちや、色鮮やかな民族衣装をまとった少女たちなども撮影。幅約50センチのコンクリートの帯が延びる38度線には、「こんなくだらないものが民族を引き裂いたのか」と憤りがわき起こり、平壌では、カメラを向けると、あふれる笑顔で応えてくれた子供たちが、カメラを下ろしたとたんに、表情をこわばらせることも。そんな姿に胸を痛めたといいます。

 

滞在中のホテルでは、よど号ハイジャック犯の若林盛亮容疑者と会ったそうです。

若林容疑者は「子供に日本の教育を受けさせたい。帰国しようか悩んでいる」と打ち明け、長島さんが「逮捕覚悟で帰国し、罪を償うべき」と言うと、「うーん」と黙り込んだといいます。そんな若林容疑者の表情の一端もフィルムに収めました。

長島さんは「拉致問題は決して許されないことだが、罪のない一般市民や在日朝鮮人を責めるのは筋違い。戦争で苦しむのは民衆で、とりわけ子供たちを守るのが大人の責任と思う」と話しています。

 

長島さんは世界を旅しながら撮影を続けており、1978年に旧ソ連侵攻直前のアフガニスタンを訪れた際の撮影分は、写真展「平和だったころのアフガニスタン」として全国で開催。戦争によって失われたものを表現しました。

 

核やミサイル問題で国際的に孤立する北朝鮮。長島さんは「国際緊張が増すなか、再び民衆が戦禍にさらされることがないよう、罪のない多くの人々がいることを伝えたい」と訴えています。

長島さんは「子どもは未来そのもの」と言います。アフガニスタンへの空爆、イラクに対する姿勢、そんな思いも重ねて伝えたかったそうで、写真のキャプションにはこう書きました。「大人の都合で戦争をし、子どもを犠牲にしてはならない」。

 

 

【最後に】

写真によって、伝えられることは多く存在します。宗澤政宏氏と日本写真映像専門学校は、これからも長島さんのような写真家がひとりでも多く生まれることを願い、育成に励んでいくことでしょう。