【要約】
この記事では、宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校の卒業生の活躍をご紹介しています。
【はじめに】
宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校は、長年にわたって写真界に数多くの優秀な人材を輩出してきたことで知られています。
今回も、過去の記事に引き続いて、そんな日本写真映像専門学校の卒業生のなかからピックアップして、その方の活躍をご紹介していきます。
今回ご紹介するのは、長島義明さんです。
【阪神淡路大震災・東日本大震災をカメラに収めた】
長島義明さんは写真展「あれから十年 阪神大震災」を2005年に開きました。横倒しになった阪神高速道路、燃え尽きた商店街、体育館に避難する大勢の人たちなど、阪神大震災当日から10日間通い詰めて撮影した被災地の惨状や、その後、復興していく街をとらえた約70点を展示。長島さんは「震災への関心や記憶が薄れているのを感じる。こんなにも大きな震災があったんだと思い起こし、改めて命の重みと、日々の大切さについて考えてもらう機会になれば」との思いで開催しました。
震災の朝、長島さんは門真の自宅にいました。今までに体験したことのない揺れに跳び起き、ニュースをみました。「あんたカメラマンやろ。撮りに行かな」。
妻、孝子さんの言葉に、カメラ2台とフィルムをつかんで被災地に向かいました。
大阪の中心部からは通行止めになっていた阪神高速道路上を歩き、西宮で下りました。
倒壊した家屋、ねじ曲がった線路、ぼう然とする被災者……。「あれほど悲惨な光景は見たことがなかった。下を向いて無言で大阪の方向に歩いて行く被災者に声を掛けられなかった」。被災者に気遣いながらシャッターを押しました。
「これは記録として残さなあかん」。そんな思いに駆られ、被災地に連日、歩いて通い続け、撮った写真はフィルム100本近くに達しました。
神戸市長田区で、自宅のダイニングの焼け跡で、立ったままおにぎりを食べている家族がいました。避難所に移る前、家での〈最後〉の食事なのだと言いました。「平凡な日常生活がどれほど大切かを思い知らされました」。
その年の5月、初めて写真展を開催。それ以来、毎年1月17日前後に大阪や神戸で開いてきましたが、10年を前にいったんやめようかと思ったそうです。
そんなとき、大阪市内で開いた会場で、倒壊した高速道と横転したトラックの写真を見た男性が話しかけてきて、「誰かあのときの写真を撮ってるはずだと思い、今まで探していました」。被災者にとっても写真の中に確認し、見つけたいものがあるかもしれない。
今一度、胸に刻みたい思いがあるかもしれない。可能な限り、続けていくことに決めました。「続けていくことで少しでも風化の歯止めになればとも思うんです」と、長島さんは話します。
東日本大震災の被災地では、約2500枚の写真を撮影しました。
長島さんは、「ずっと『生きる』ということにこだわって写真を撮ってきた。自分なりの視点で、今回の震災を記録したい」と、4月23日から5月3日まで岩手、宮城、福島各県に足を運びました。
最初に向かった岩手県釜石市では、原形をとどめる建物がほとんどないほど破壊されたかつての商店街を見たそうです。「町を丸ごと壊滅させる津波の恐ろしさを実感しました」と振り返ります。阪神の時は、大きな被害を受けた場所でもあちこちに住民がいましたが、今回は人を見かけることすらまれでした。それでも、確かに人々の営みがあった証しを探し、シャッターを押しました。水たまりに、強烈な赤色を放つ女の子の草履が浮いているのが見えました。「神戸(と同じ被災地)に戻ってきた」。震える手でシャッターを切ると、阪神大震災の撮影に奔走した当時のことが去来したそうです。
陸前高田市では、津波で流失した畑の跡にぽつんと残った満開の桜の下で、がれきを片付けていた男性に出会いました。「海の水につかったからか、今年は花の色が薄くて寂しい。来年はもっときれいに咲くはずだよ」。そう語る姿に、復興が進み、笑顔で花見ができるよう願わずにはいられなかったそうです。
山田町では、折れ曲がったポールにくくりつけられたこいのぼりが、いっぱいに風を受けていました。レンズを向けながら、再生への決意の表れだと感じたそうです。
【最後に】
大震災によって被災地に残った傷跡と、人々が再生へと動きだす様子をカメラに収めた長島さん。宗澤政宏氏と日本写真映像専門学校は、長島さんのような素晴らしい写真家を社会に送り出し続けることでしょう。