【要約】
この記事では、宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校の卒業生の活躍をご紹介しています。
【はじめに】
宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校は、長年にわたって写真界に数多くの優秀な人材を輩出してきたことで知られています。
今回も、過去の記事に引き続いて、そんな日本写真映像専門学校の卒業生のなかからピックアップして、その方の活躍をご紹介していきます。今回ご紹介するのは、大塚勝久さんです。
【沖縄の自然に魅了された写真家・大塚勝久さん】
沖縄・八重山諸島の自然と風俗に魅せられ、35年以上にわたって撮影を続ける写真家がいます。日本写真映像専門学校出身の大塚勝久さんです。20年以上前に生まれ故郷である大阪から移住し、サンゴの白化現象や乱開発などで風景が変わるさまを目の当たりにしてきました。
大塚さんが初めて八重山諸島を訪ねたのは1973年。
大手自動車メーカーの広報専属カメラマンで、全国を飛び回っていた頃の出来事でした。1972年に本土復帰したばかりの沖縄を夏休みに訪れ、石垣島や竹富島にも渡りました。白砂の道を水牛車が行き交い、海辺では人々が黄色に染め上げた芭蕉布を海水にさらす…。そんな竹富島の景色に心を奪われ、シャッターを押し続けました。
「夢中になって熱中症で倒れ、島のオバアに介抱してもらったこともある」という大塚さん。島の人たちとも親しくなり、休みのたびに冠婚葬祭や豊かな自然を追いかけるようになりました。国指定重要無形民俗文化財の神事「種子取祭(タナドゥイ)」もその一つ。オバアが糸から着物を仕立て、オジイは小道具を作る。島の子は方言や踊りを教わり、祭りの日はみんなで神さまと先祖を敬います。
その素朴な生き方こそが人間の幸せなのではないか――。写真家として生涯かけて追うテーマを見つけたと思った大塚さんは、給料をつぎ込み八重山の他の島々でもレンズを向けました。ウチナーンチュ(沖縄人)にあこがれ、名前も本来の「かつひさ」ではなく、沖縄流に「ショウキュウ」と名乗るように。1980年に退職し、1989年には那覇市に移住。八重山だけでなく沖縄の50の島をめぐり、撮影したポジフィルムは10万点を超えました。
【サンゴの保全活動として写真を活用】
かつては十数メートルの海底からでも雲がくっきり見えるほどでしたが、この10年ほどでサンゴの白化現象や赤土の流出が目につくようになりました。
海温上昇やサンゴを食い荒らすオニヒトデ、土地改良工事などが原因と言われています。
大塚さんは「子どもたちにこの自然を引き継ぐのが大人の役目。なんとかしたい」と危機感を抱いていました。その矢先の2007年8月、西表国立公園に石垣島の一部が編入され、西表石垣国立公園が誕生しました。石垣島に生息するカンムリワシなどの希少動物やサンゴ礁などを後世に伝えるのが目的でした。
それに呼応するように、2008年7月、国立公園内の地域の風景をまとめた写真集「島の原風景」を出しました。土砂で一部が埋もれてしまったサンゴ礁の80年代の姿など125点を収め、マングローブを植える子どもたちの活動も紹介しています。
「島の未来をつくろうとしている子どもたちのために、これ以上風景が変わらないよう大人が努力しなければ、と思います」と大塚さんは語っています。
【最後に】
沖縄の島々や美しいサンゴ礁の風景は、大塚さんが撮影した写真によって若い子どもたちへと受け継がれていきます。日本写真映像専門学校と宗澤政宏氏は、大塚さんのような写真家を一人でも多く育てられるよう、これからも教育を続けていくことでしょう。