宗澤政宏がお届けする、社会貢献に関する紹介

日本写真映像専門学校を卒業した人々㊴

【要約】

この記事では、宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校の卒業生の活躍をご紹介しています。

 

【はじめに】

宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校は、長年にわたって写真界に数多くの優秀な人材を輩出してきたことで知られています。

今回も、過去の記事に引き続いて、そんな日本写真映像専門学校の卒業生のなかからピックアップして、その方の活躍をご紹介していきます。今回ご紹介するのは、鋤田正義さんです。

 

 

【ボウイはエキサイティングな人間だった】

ボウイは非常にエキサイティングな人間だったといいます。そもそも鋤田さんがボウイに関心を抱いたのは、知り合ったときにボウイが「このままでは地球が滅びる!」というメッセージを持って宇宙から地球にやってきたジギー・スターダストというミュージシャンを演じていたからでした。「アラジン・セイン」をリリースしたあと、ボウイは引退宣言をしますが、翌年「ダイアモンドの犬」で復活。「引退宣言は何だったのか?」と問われると「ジギーが引退するという意味だ」と、しれっと回答。この姿勢が面白いと感じたそうです。

 

【ボウイの写真展を世界各地で開催、あらためてボウイの人気を再確認した】

鋤田さんとボウイは親交を深め、日本でボウイの写真を撮ることが増えていきました。そのおかげで、鋤田さんの写真展が世界各地で開催されるようになり、ブラジルなどからも声がかかったといいます。ボウイが亡くなったときは100以上のオファーが届いたということで、改めてボウイの人気ぶりを認識したそうです。

 

鋤田さんは、イタリアにある最古の大学・ボローニャ大学の映像学部で講義をしたこともあります。ボローニャで開かれたボウイの写真展には、一日で2500人もの人が足を運び、大変驚いたといいます。写真展には、17歳ほどの少女が訪れていました。ボウイは2004年に倒れてから10年ほど活動を停止していたため、その少女はボウイの活動を知らないはず…。そこで鋤田さんが彼女に問いかけると、「私がボウイのファンになったのは、あなたの写真を見たからなんです!」。こういう声を聞くと、やはり嬉しく感じるそうです。

 

 

【ロックミュージシャンの写真家として、日本を拠点に活動すると決意した】

鋤田さんは独立してフリーのカメラマンとなった際、自分のセールスポイントを明確にするため「ロックミュージシャンの写真を撮って生きていく!」と決断します。その後、山本寛斎さんや高橋靖子さんの助力もあり、ボウイの撮影に成功、その写真が世界中で評価を受けることになります。そのとき、鋤田さんのなかでは、「ニューヨークやロンドンを拠点に活動するのもアリか…?」と悩んだそうです。

 

ただ、多くのカメラマンがしのぎを削る世界に飛び込み、成功するのは簡単なことではありません。日本人である鋤田さんにとって、英語はハンデとなります。ボウイの書く歌詞であえ、分からないところがあったぐらいでした。もちろん、英語圏の人でさえボウイの歌詞を完璧に解釈できる人は少なかったと思われますが、それにしても英語圏での活動は不利になる、イギリスのミュージシャンの専属カメラマンとして働くのは難しいだろうと判断、最終的に鋤田さんは日本で仕事をすることにしました。

逆に、来日するミュージシャンに声をかけ、日本で、鋤田さんにしか撮れない写真を撮ればよいではないか、と考えるようになったそうです。

 

【最後に】

鋤田さんが撮影したボウイの写真は、世界各地から評価を受けました。日本写真映像専門学校と宗澤政宏氏は、これからも鋤田さんのような世界的な写真家を輩出し続けることでしょう。