【要約】
この記事では、宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校の卒業生の活躍をご紹介しています。
【はじめに】
宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校は、長年にわたって写真界に数多くの優秀な人材を輩出してきたことで知られています。
今回も、過去の記事に引き続いて、そんな日本写真映像専門学校の卒業生のなかからピックアップして、その方の活躍をご紹介していきます。今回ご紹介するのは、鋤田正義さんです。
【ボウイの写真を撮り続けて40年!】
2012年に発売されたボウイの写真集「スピード・オブ・ライフ」は、編集になんと7年も費やした大作でした。最初はボウイの写真を撮り始めて30年という節目の集大成として企画されましたが、写真集が発売したころには結果的に40年が経過していました。
製作途中から、ボウイも写真集にメッセージを入れたいと言ってきたといいます。鋤田さんのこだわりは。「時代ごとのコメントを、英語だけでなく日本語でも掲載すること」でした。デザイナーは外国人の方が務めているため、日本語が少し変わっています。実は、グラフィックデザインに関しては一度やり直しを求めたといいます。最初のころは「西洋人が考える東洋」というコンセプトでデザインされていましたが、そんな奇をてらったことはせず、普通にいつも通りにデザインしてほしいと頼んだそうです。
【ボウイの存在を写真を通して後世に語り継ぐことを決意した】
このような話をしていると、ボウイを思い出さないわけにはいきません。実は、鋤田さんはボウイが1年半もの闘病生活を送っていたことは知りませんでした。ただ、ボウイの事務所に連絡したとき、「展覧会をするから見にきてほしい」といっても、以前のような返答がなかったことには気になっていました。なぜ渋るのだろう…と不思議がっていたそうです。
ボウイの訃報は、一般の方よりむしろ遅く耳にしたといいます。鋤田さんはスマホでメールを見るのですが、ボウイが亡くなったという知らせが発せられたとき、鋤田さんはたまたまスマホを所持していませんでした。その後、鋤田さんの奥様が、ボウイが亡くなったことを教えてくれたといいます。急いでスマホを見ると、ものすごい量のメッセージが届いていました。これを見てはじめてボウイの訃報を知り、大きなショックを受けたといいます。3日ほどは何もやる気が起きず、テレビもラジオもつけずに放心状態だったそうです。
そのときに思い出したのは、ディーンが1955年に交通事故でこの世を去ったときのことでした。T・レックスのマーク・ボランも交通事故で亡くなっています。“好きだった人を亡くしてしまった…”という思いに襲われたといいます。
ボウイは周囲からミステリアスで冷たい人間だと言われることもありましたが、実際は明るい人だったといいます。周りへの気遣いも欠かさない人で、たとえば日本でライブをおこなった際、鋤田さんがカメラマンとしてステージ上にいると、ボウイは「スキタサン、オゲンキデスカ?」と声をかけてくれたといいます。
鋤田さんはボウイのことを「デイヴィッド」と呼び、ボウイは「スキタサン」と呼んでいたそうです。メールには「Sukita-san」と書かれていました。残念ながら、「Sukita-san」と書かれたメールが送られてくることは無くなってしまいましたが、鋤田さんが撮ったボウイの写真は記録として残り続けます。
これからはボウイの在りし日の姿を後世に語り継ぐことが仕事だ、と鋤田さんは考えています。
【最後に】
鋤田さんが撮ったボウイの写真は、これからもボウイの生きた記録として語りつがれていきます。そして、日本写真映像専門学校と宗澤政宏氏は、人々の記憶に残る写真を撮れるような写真家を育成し続けることでしょう。