宗澤政宏がお届けする、社会貢献に関する紹介

日本写真映像専門学校を卒業した人々㊸

【要約】

この記事では、宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校の卒業生の活躍をご紹介しています。

 

【はじめに】

宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校は、長年にわたって写真界に数多くの優秀な人材を輩出してきたことで知られています。

今回も、過去の記事に引き続いて、そんな日本写真映像専門学校の卒業生のなかからピックアップして、その方の活躍をご紹介していきます。今回ご紹介するのは、浅田政志さんです。

 

【日本写真映像専門学校を卒業した浅田さん】

浅田さんがはじめてカメラで写真を撮ったのは、中学3年生のとき。浅田さんのお父様のカメラでした。お父様のカメラは、年賀状のための写真を撮るためだけにしか使っておらず、浅田さんと浅田さんのお兄さんの成長過程を記録するだけのカメラでした。浅田さんが中学生になるまで、年末に必ず撮影していたといいます。それ以来、カメラに興味を持った浅田さんは、友人や家の周りの風景などを自己流で撮影するようになります。

 

高校卒業後は、日本写真映像専門学校に進学。

「勉強は嫌で、遊びたいという気持ちが大きかった。興味があったのは写真だけだった」という浅田さん、日本写真映像専門学校時代はあまり勉強はしなかったといいます。しかし、意外にも課題に取り組むことだけは好きだったそう。「そうで出すなら、周りからおぉーと言われるような作品を提出したい!」という気持ちだったそうです。

 

そんな課題の一環で撮影した家族の写真が、後に浅田さんの代表作となる家族シリーズのきっかけとなっていくのです。

 

【卒業後は就職せず、スロットに傾倒した】

日本写真映像専門学校卒業後は、就職はせず、実家に帰ってふらふらとしていたという浅田さん。特に何かを考える訳でもなく、アルバイトもせずに毎日スロットに興じる日々。半ば中毒のような状態で、月に140万円ほど、3年間で2000万円ほど稼いだそうですが、稼いだせいで逆に現状に甘えてしまい、頭のなかに写真のことはあっても、撮影することはほとんどありませんでした。

 

【心機一転、東京へ。スタジオでカメラマン仲間と出会う】

その後、心機一転して上京し、スタジオフォブスに入る浅田さん。入ることは決して簡単ではありませんが、2か月に1度くらいのペースで作品を持ち込んでアプローチしたそうです。最初は浅田家の家族写真、その後は東京の風景や学生時代の作品などを持参、5回ほど訪問したそうです。1~2回持ち込んでダメだったらあきらめてしまう人が多い中で、浅田さんは何度も持ち込み、見事入ることができました。

 

いろいろなカメラマンが入れ代わり立ち代わりでやってくる空間であったため、入ったばかりの浅田さんにとってはプロの仕事を見ることができる貴重な機会でした。ライティングの技術や仕事のこなし方など、学ぶことは多かったといいますが、同世代のカメラマンと出会えたことが、特に良い刺激となったそうです。

スタッフは30人ほどで、皆が個性豊かで面白い人ばかり。「これどう?」「もうちょっとこうした方が良いんじゃない?」「これから撮りたい写真ってあるの?」など、写真談義に花が咲き、お互いの悩みや将来などを語り合う空間は、あたかも学生時代の部活のようで、青春のような時間だったそうです。いまでも本当に写真の話ができるのはその時の友人だそうで、交友関係は続いており、時々一緒に撮影に出かけることもあるのだそうです。

 

【さいごに】

いまでは日本有数のカメラマンである浅田さん。宗澤政宏氏が運営に携わる日本写真映像専門学校を卒業してから、様々な経験をして現在に至っていることがわかります。宗澤政宏氏と日本写真映像専門学校は今後も浅田さんのような写真家を育てられるよう尽力していくことでしょう。