宗澤政宏がお届けする、社会貢献に関する紹介

日本写真映像専門学校を卒業した人々㊹

【要約】

この記事では、宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校の卒業生の活躍をご紹介しています。

 

【はじめに】

宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校は、長年にわたって写真界に数多くの優秀な人材を輩出してきたことで知られています。

今回も、過去の記事に引き続いて、そんな日本写真映像専門学校の卒業生のなかからピックアップして、その方の活躍をご紹介していきます。今回ご紹介するのは、浅田政志さんです。

 

【独立し、フリーの写真家として活動】

スタジオフォボスで2年半ほど過ごした後、独立した浅田さん。浅田さんのようにいきなりフリーになると、一般的には食べていくことが難しいとされています。世の中にカメラマンは大勢いて、写真が良いというだけで仕事を頼まれるわけでもないからです。ある種人間関係で成り立っている仕事なのです。

 

カメラマンになるためには、いい師匠の下につくことが王道だといいます。いい師匠につけた人は、だいたい食べていけるそうです。しかし、浅田さんは誰かの下にはつきませんでした。浅田さんは、残念ながらこの人についていきたいという師匠には出会えなかったそうです。それに、仮に師匠についてしまうと、師匠の仕事や師匠のテイストに合わせたことを求められるため、自己流を発揮しずらいという制約があり、これが浅田さんには合わないと感じたそうです。

 

【営業に回り、仕事を探した初期】

そのため、最初のころの活動はもっぱら営業でした。フォボス時代に知り合ったカメラマンのアシスタントに連れていってもらったり、出版社に作品を持ち込んだりしていたそうです。出版社で家族写真を見せると「うん、面白い!また見せてよ」とは言われるそうですが、反応はそれだけでなかなか仕事には結びつきませんでした。

 

本当に仕事が欲しいのであれば、「料理をきれいに撮影できます!」「人物を魅力的に撮影できます!」といった風にアピールするのがあたりまえでしたが、浅田さんが見せたのは家族写真。相手方からすれば、どんな仕事がしたいのか明確なビジョンを描くことはできません。しかし、浅田さんは自身の家族写真に自信があったため、「相手にただ見てほしい」という動機で、営業には向いていないとわかっていながら持ち込んでいたという節もあったそうです。もちろん、いわゆる仕事っぽい写真を撮ることもしていましたが、とはいえ自信をもって他人に見せるような作品ではないと感じたそうです。

 

【撮りためた家族写真は、根拠のない自信を生み出した】

営業先としては、浅田さんが好きだった雑誌の編集部や、カルチャー雑誌、映画雑誌などを回りました。若手の写真ばかりを掲載している、仕事がもらえそうな雑誌にも営業に出かけたそうです。

 

多い時には1日3か所ほどに赴いたそうですが、あまり上手くいきませんでした。その間は、家族写真の撮影に精力的に励んでおり、週末には実家に帰り写真を撮り続けていました。撮った写真は東京の自宅に戻ってから整理するのですが、日を追うごとに写真はたまっていき、ブックが分厚くなっていくことに喜びを感じていました。

 

確かに仕事はあまりもらえていませんでしたが、それでもなんとかなるんじゃないかという根拠のない自信はあり、もし写真が日の目をみることがなくても、撮らなければならないと思っていたそうです。

 

【さいごに】

浅田さんといえでも、ブレイクするまでには下積み時代を経験していました。そんな時代を支えていたのが、日本写真映像専門学校で培った技術と、家族写真でした。日本写真映像専門学校と宗澤政宏氏は、これからも優秀な写真家を育てるための手助けを継続していくことでしょう。