【要約】
この記事では、宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校の卒業生の活躍をご紹介しています。
【はじめに】
宗澤政宏氏が運営に携わっている日本写真映像専門学校は、長年にわたって写真界に数多くの優秀な人材を輩出してきたことで知られています。
今回も、過去の記事に引き続いて、そんな日本写真映像専門学校の卒業生のなかからピックアップして、その方の活躍をご紹介していきます。今回ご紹介するのは、奥彩花さんです。
【日本写真映像専門学校の卒業生・奥彩花さん】
奥彩花さんは写真家で、日本写真映像専門学校の卒業生です。奥さんの写真は「生の裏側」を意識させるような作品が多いことが特徴です。子どもの頃に見た景色や、自分が想像する世界をモチーフにして写真を撮影しています。様々な写真展に参加したり、自ら個展を開いたりなど、積極的に活動する奥さんが、いまの作風に至るまでには、どのような過程を経ているのでしょうか。
【はじめは写真家ではなく音楽関連の仕事を志望していた!】
奥さんが写真に興味を抱いたのは、小学生のときにご両親が持っていたデジタルカメラをお下がりで貰ったことがはじまりでした。コンパクトサイズのカメラだったため、日常的に持ち歩き、何気なく周囲の物を撮影していたといいます。
だからといって、そのころから写真家を目指したわけではありませんでした。奥さんのお母さまがピアノの講師を務めており、音楽に触れる機会が多かったということで、最初は、習っていたバイオリンに関係する仕事に就こうと考えました。しかし、仕事と趣味では音楽に対する向き合い方が変わってしまうのではと考えた奥さんは、音楽を仕事にすることを断念します。
【水中カメラマンの道を志すように】
その間、奥さんは全国の水族館を回って好きな魚を撮影していたのですが、ある日、水中で撮影した写真集を見る機会があり、たいへん衝撃を受けたといいます。
そこで「水中写真家」という仕事の存在を知り、奥さんは水中カメラマンの道を志すことになります。実際にダイビングの資格も取得し、日本写真専門学校時代には水に関連する写真をよく撮影したといます。出身が滋賀ということもあり琵琶湖で撮影したり、沖縄まで出かけて撮影したりすることもありました。
【写真展に参加し、写真に対する概念が変わった】
奥さんは子どもの頃から一人でいることが好きなタイプでした。写真家として積極的に活動するようになった現在は人と会話する機会も増え、写真を通していろいろな人と関わっていますが、幼少期はとにかくひとりを好み、周りからは無口で地味な子と思われていたといいます。
そんな奥さんですが、日本写真映像専門学校の1年生のときに、先生の薦めで「御苗場」という写真展に出展することになります。いざ参加してみると、来場者などからひっきりなしに話しかけられて、無口なタイプの奥さんでもとにかくしゃべり続けなければなりませんでした。
しかし、同じく写真展に参加していたクラスメイトが周囲にアピールしている姿を見て、自分も能動的にならなければと感じたそうです。この写真展に参加したことで、いままで「写真は見るもの」と捉えていましたが、「写真で会話するもの」という意識に変化したそうです。
【さいごに】
日本写真映像専門学校の先生が発したふとしたひと言で写真展に参加し、写真に対する概念を大きく変えた奥さん。日本写真映像専門学校での生活がいまの奥さんの源泉であるといっても過言ではないのではないでしょうか。日本写真映像専門学校と宗澤政宏氏は、これからも写真家を目指す若者たちをサポートし続けることでしょう。